美山で、研究大会&総会  3/31~4/1

 

2017年度京都歴教協研究大会・総会が、3月31日(土)~4月1日(日)が開かれました。天気は快晴。梅は満開、桜はいよいよ開花か。飛び散る花粉に目鼻をやられながらも、楽しくワイワイと15名(滋賀からも参加1名含む)が集まりました。

今年のテーマは、「美山の歴史・伝統と地域おこしを訪ねる」ということで、南丹市美山町を訪れました。このコースは、今年の京都大会の現地見学Eコースにあたります。
美山町は、南北に細長い京都府のなかほど丹波山地の東端に位置し、標高700~900mの山に囲まれ、東から西へ横断する由良川に沿って57の集落が散在する中山間農村です。

集合は、道の駅美山ふれあい広場。車やバイクで訪れる観光客でにぎわっていました。美山牛乳、そしてそれを使ったソフトクリームやヨーグルト、シュークリームの美味いこと!鯖寿司も安くて美味し、栃の花の蜜やイチジクのジャムや鹿せんべいなどなど、めずらしいお土産品がいっぱい!

美山といえば、かやぶきの里(知井地区北村)ですが、そこへ行く前にまずは、南西へ約5㎞の宮島地区に移動し、美山かやぶき美術館を訪問。築150年の立派な古民家を移築し開館された施設で、木工・陶芸・布など地域の美術作品が展示されていました。
隣接する郷土資料館には、農具や民具のほか、昔懐かしい生活用品が展示されていました。

いよいよ知井地区北村のかやぶきの里へ。
ガイドの方の説明がとてもわかりやすく楽しかったです。
1993年に、北村かやぶき集落が国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されました。現在39棟あります。北村は2012年に65歳以上の高齢者が住民の過半数を超える限界集落となっている。ここに暮らす小学生は5名、中学生は1名。

かやぶきの屋根は三層からできています。下の層は「おがら」、なかほどは「わら」、上の層が「かや」(ススキも含む)からできています。かつては40~50年ほどもちこたえたが、いまは20年くらしかもたない。これは、家のなかで火をたかなくなったことが原因で、その結果煤(すす)がでなくなり、これがかやぶきの屋根にとっては耐久性を下げることになっています。

放水銃です。格納庫を開けてもらいました。

かやぶきの屋根の弱点は、火に弱いこと。火事を防ぎ、万が一出火しても類焼を防ぐために62基設置してあるとこいうことです。家の数より多い!毎年5月と12月に放水訓練が行われます。これを見に観光客が集まります。

高御堂厚さん(美山ふるさと株式会社)のお話。
美山町は、毎年100人以上人口が減少しています。なかなか移住しようとはなりません。そこで、この豊かな自然と文化を生かしたい。ただ美しい景色を見て「さよなら」ではなく、美山の良さを生かしたさまざまな商品を開発し、収益をあげたいのです。エコツーリズムの考え方です。地元の仕事おこしにもつながり、定住化を促進できればいいなと思っています。野生動物がいるからといって、ハンターをお客にしたいのではありません。昨今はインバウンド(外国人客)も増え、バスも増便される予定です。「美山いいね」「おいしかったね」といわれるように頑張ってぃきたい。

夕食は、まず地元産のどぶろくで乾杯!新鮮な海の幸がいっぱいの寄せ鍋をいただきながらワイワイと楽しい歓談中!

夕食後は、吉田武彦さん(福知山市立三和中学校)が「学校・地域から創る平和の文化~朝鮮学校との交流が築いたもの~」と題して報告されました。これは、今年の夏の全国大会の全体会で地域実践報告として発表されるものになります。自己紹介に始まり、ふりそでの少女像につながる取り組み、さらに舞鶴朝鮮学校や京都朝鮮中高級学校との長年にわたる、学校ぐるみ地域ぐるみの交流が写真や映像とともに紹介されました。

50分をこす熱弁でした。本番では40分しか与えられていないので、さてさてどう精選していくか。全体会の目玉になることは間違いありません。こうご期待!
そのあと、総会を開き、総括案と方針案が承認されました。

二日目も快晴!

宿泊でお世話になった河鹿荘前で。

美山では、過疎化が進む1970年代後半から80年代前半にかけて、村おこしとして農事組合・造林組合を集落ごとに組織し、乱開発や環境汚染から豊かな自然と伝統文化を守り続け、1989年都市交流拠点として「美山町自然文化村」を創設されました。河鹿荘はそのなかにあります。

旧知井小学校の校舎。2014年南丹市は少子化を理由に、美山町の5小学校を1校に統廃合しました。この知井小学校も2016年度をもって143年間の歴史に幕を閉じましたが、いまも地元の木材を使った立派な校舎が、さまざまな催しに活用されています。昨夜の吉田さんの報告もここの教室を利用させてもらいました。

旧知井小学校で、長野光孝先生のお話「地域と学校」をお聞きしました。長野先生は、京都歴教協の大先輩でもあり、いまは知井振興会会長として地域の発展のために活躍されています(右写真、立っておられる左側、右は田中仁先生)。
美山町では、幕末期から各集落で寺子屋が開かれており、早くも1873(明治6)年4地域で学校が開設されたということです。知井村では、村是として「山に良材、里に人材」を掲げて、広大な学校林を設け財源を確保し、学校を中心とした村作りが行われてきました。1928年には浄財を集めて村独自の奨学金制度を設け、奨学資金を給付して村の教員や医師、農林業の人材を育成したとのお話でした。地域に根ざした視点から「明治150年」をとらえることの大切さを学びました。

そして長野先生のお話をもう一つ。美山は、京の都と若狭を結ぶ中間地点にあたる。歴史の通り道で、都の文化が外へ行き、外の文化が都へ入る。だから美山は山村のわりには濃厚な歴史があるのです。

知井地区と宮島地区の中間にあたるのが内久保地区です。戦時中、1945(昭和20)年6月15日午前、内久保地区にB29から焼夷弾約80発が投下され、全焼家屋2軒、負傷者1名(1歳の幼児)、その他何軒かの家屋と水田・畑の損傷・山火事が起こった。地元の教職員で調査したところ、余った爆弾の投棄ではなく、ここに弾薬庫や造船の資材となる軍用材を作るための製材所があったためではないかと結論づけられています。

 

これは「義民宮内の碑」です。内久保大橋右側の河畔にありました。1836(天保7)年、飢饉に苦しむ村人を救うために園部藩主に年貢減免を直訴して死罪になった宮内清吉を顕彰する碑です。碑は1929(昭和4)年に建立され、今でも毎年10月10日にここで全村民による法要が営まれます。

由良川をはさんで、蓮如の滝の反対側に光瑞寺があります。もともとは真言宗の寺だったのですが、1475(文明7)年に-応仁の乱の真っ最中!-越前吉崎から撤退した蓮如が若狭小浜を経て河内国へ向かう途中、この地に逗留したのがきっかけで浄土真宗に宗旨替えをしたそうです。

境内には蓮如が滝を眺めるときに腰を下ろしたという「座石(ざせき)」があります。

蓮如が遺したという6字の名号が寺宝となっています。

織田信長による石山合戦(1570~80年)の折りにも、この地域の一向宗徒は石山本願寺を支援し続けたといいます。光瑞寺から石山本願寺へ、鉄砲・弾薬・兵糧などを送った文書や本願寺からの礼状などが100ほど残っているとおっしゃっていました。

 

 光瑞寺後方の杉林の山中に、「菊姫廟所」と呼ばれる墓がありました。寺伝によると、享保年間(1730年代)に寺と関係の深かった関白近衛家から一人の女性が預けられていたというのです。その女性は禁忌の病(ハンセン病か?)に冒されていたと伝えられ、菊の花が好きだったとのことです。「菊姫」と呼ばれた女性は、高貴な家門の「名誉」を守るためとして美山の奥地に隠されたという悲話が伝えられています。

昼食は、山里料理旅館「いそべ」でいただきました。ここで、二日間にわたる締めくくりとして、長野先生から「美山の歴史と伝統文化」と題してお話をうかがいました。長野先生と田中仁先生には、たいへんお世話になりました。ありがとうございました。

 

かやぶきの里にあったミツマタ
かやぶきの里にあったミツマタ

結論。もう一度いいます。このコースは、今年の京都大会の現地見学Eコースにあたります。豊かな自然に囲まれ、美山の歴史と文化と美食に出会う旅。このコースもいいですよ!