京都歴史教育者協議会/11月特別企画

藤原辰史さん講演会

「食・農・戦争-社会科から考える-」

2019年11月30日(土)14:00~17:00

同志社中学校・高等学校/宿志館さきがけホール

晴れわたった洛北の地で、藤原辰史さんの講演会を開催しました。藤原さんは、「食・農・戦争-社会科から考える-」というテーマで時間軸と空間軸を自由自在に移動し、異なる研究分野をつなぎながら、私たちに知的でかつ楽しくスリリングな問題提起をされました。歴史研究と哲学的な思索が交差するところで何が見えてくるかというお話が、つねに私たちのくらしと子どもたちの成長に暖かい視線をそそぎながら展開されましたので、緊張感もありながらも笑いもおこるという本当に素敵な講演と対話になりました。学生さんを含めて76名の参加で、会員以外の方もたくさん参加していただきました。そんな知的探究のひとときを不十分ではありますが、以下にまとめてみました。今後の社会科教育にとっても、ヒント満載です。

プロフィール(ふじはら・たつし)

1976年、北海道旭川市生まれ、島根県横田町(現奥出雲町)出身。

1995年、島根県立横田高校卒業。1999年、京都大学総合人間学部卒業。

2002年、京都大学人間・環境学研究科中途退学、同年、京都大学人文科学研究所助手(2002.11-2009.5)、東京大学農学生命科学研究科講師(2009.6-2013.3)を経て、現在、京都大学人文科学研究所准教授。

著書(単著)

2019 『分解の哲学——腐敗と発酵をめぐる思考』青土社(サントリー学芸賞)

2019 『食べるとはどういうことか——世界の見方が変わる三つの質問』農山漁村文化協会

2018 『給食の歴史』岩波書店(辻静雄食文化賞)

2017 『戦争と農業』集英社インターナショナル新書

2017 『トラクターの世界史——人類の歴史を変えた「鉄の馬」』中公新書

2014 『食べること考えること』共和国

2012 『稲の大東亜共栄圏──帝国日本の<緑の革命>』吉川弘文館

2012(2016=決定版、共和国) 『ナチスのキッチン──「食べること」の環境史』水声社(河合隼雄学芸賞)

2011 『カブラの冬──第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆』人文書院

2005(2012=新装版) 『ナチス・ドイツの有機農業──「自然との共生」が生んだ「民族の絶滅」』柏書房 (日本ドイツ学会奨励賞)

著書(編著、共著)

2019 『歴史書の愉悦』ナカニシヤ出版

2019 『農学と戦争』岩波書店

2019『われわれはどんな「世界」を生きているのか-来るべき人文学のために』ナカニシヤ出版

2016 『第一次世界大戦を考える』共和国

2014 『現代の起点 第一次世界大戦』全四巻、岩波書店

2008 『食の共同体動員から連帯へ』(池上甲一、岩崎正弥、原山浩介と共著)ナカニシヤ出版

司会(大場さん)

藤原辰史さんのプロフィールは、お手元の資料をご覧下さい。実は、私は京都大学の大学院で学んでいたときに藤原さんもご一緒でした。とても熱心な研究者でした。当時のことをなつかしく思い出しています。さきほどほぼ20年ぶりに再会し、とても不思議な感じがしています。先日、『給食の歴史』を読んでいて、びっくりしました。最初に丹後半島の伊根町の給食の話が出てきますが、そこに登場する栄養教諭のお名前を見て「あれ?」と思いました。私の初任校の高校の教え子だったのです。今日の講演会を迎えるにあたって、いろんなご縁を感じています。では、藤原さん、よろしくお願いいたします。

生きる基盤について

『給食の歴史』(岩波新書、2018年)の重要な登場人物が、大場さんの教え子だったとは、その偶然に本当にびっくりしました。満洲研究会という院生主体の研究会でご一緒していました。大場さんは満洲(現在の中国東北部で、1932年に日本はここに傀儡国家「満洲国」を建設した)の映画を研究されていましたね。私もなつかしく思い出しています。 

 

さて、まず私たちの生きる基盤は何によって管理されているのかという問題からお話したいと思います。私はこれまで農業の研究を歴史の視点からしています。歴史の教科書の最初の方で、農業の始まりが出てくると何となく親近感が湧いてきましたが、同時になぐりあいや殺し合いの歴史も始まっていて、食べること・生きることと並んで殺すことは歴史の両輪として続いてきたことは否めません。聖書のなかに「剣を鋤にもちかえ」というフレーズがありますが、私がずっと研究しているナチズム-13年間のファシズム国家を作りましたが-のスローガンの一つが、「血と土Blut und Boden」と並んで「鋤と剣Pflug und Schwert」だったことは重要だと思っております。

 

何かを生かすことと何かを殺すことがセットになって、歴史の中に反復してやってくる。この反復が現代史でどのようにあらわれるのか、これが私の歴史研究の肝になっています。

 

私がまず注目したのは、戦争と農業が見えないところでがっちり結びついた事件、つまり第一次世界大戦です。

 

人文科学研究所では、8年間第一次世界大戦の共同研究をしてきました。その成果の一つが『戦争と農業』(集英社インターナショナル新書、2017年)という本になったのですが、その中で分かってきたことは、第一次世界大戦で出てきた戦車・窒素合成肥料・毒ガスは、農業技術とのデュアルユースだということです。戦車は最初イギリス軍が使ったのですが、どうしてイギリス軍が開発したのかと、第一次世界大戦の特質を知らないといけません。当時ドイツの工業生産力はアメリカに次ぐ第2位の力をもっていました。19149月中旬にはドイツ軍はパリの近くにまで来ていました。ドイツには楽観的な空気が流れるなかで、イギリス軍フランス軍に押しもどされます。なぜか。その理由の一つは、あまりにも調子良く進みすぎ、補給線が切れてしまったのです。そして戦争は膠着状態になります。理由は、当時、双方とも膨大な火薬をつくる技術をもっており、それをマシンガン、つまり機関銃を用いて大量に消費していたからです。

 

『機関銃の社会史』(ジョン・エリス著、越智道雄訳、1993年)という本が平凡社から出ていますが、その本によると、機関銃は撃つとき相手を見きわめずに次々と殺せるので罪悪感が軽減されるマシン=機械だというのです。そのマシンガンが最初に登場したのはアメリカの南北戦争だと言われていますが、それがヨーロッパにもたらされ、アフリカの植民地で暴動や反乱がおこったときに使われ始めたのです。ある意味、非常に野蛮な武器なのでヨーロッパ人同士では使わず、害虫退治のような形でアフリカの住民に向けて使っていたのです。

 

こうしてアフリカで十分に試された機関銃の知識や技術が初めてヨーロッパ大陸に上陸したのが第一次世界大戦です。そのとき既に火薬を大量生産できる技術をドイツはもっていました。ハーバー=ボッシュ法といい、空気中にある窒素を原料に膨大な化石燃料を用いてアンモニアを作る技術で、作ったアンモニアで火薬を製造しました。一方で、アンモニアは化学肥料、つまりチッソ肥料の原料にもなりますから、肥料と火薬は空気中にある窒素を使って作るということが、第一次世界大戦前に可能になっていました。

トラクターが戦車に

私は第一次世界大戦を研究するとき、研究仲間と一緒に、フランスやベルギーなどの戦場を見て回りました。この戦争の兵士たちは膨大な火薬の嵐のなかで戦いましたから、立っていることができないので穴を掘ります。塹壕ですね。塹壕の中に入ってみましたが、下には木の簀の子のようなものが並べてあり、排水はできるようにしてありました。ネズミがうろつき回り、チフスが蔓延しやすい状況でした。ここに身を隠し、隙を見て攻撃をしかけるということをくり返しました。

 

こうして戦線が膠着状態になっていきました。何とかして打開できないかということになりました。そこで、当時アメリカで使われていた農業用のトラクターを使ってみたらどうだろうかということになったのです。この中心になったのがチャーチルで、19152月に「陸上軍艦委員会」というものを作ってトラクターを一つのモデルとして戦車を開発していったのです。

毒ガス

次に毒ガスです。これも第一次世界大戦で出てきた新兵器ですね。毒ガスは、空中窒素の工業化に成功したフリッツ・ハーバーを初めとする当時のドイツ精鋭の化学者たちが開発したものです。塹壕にいる敵兵をあぶり出すための兵器です。当時は人道的兵器といわれました。なぜか。毒ガスは、兵士をそんなに傷つけず戦意を喪失させるだけだから国際法に則った戦争ができるじゃないかということでした。最初に使っていたガスは催涙ガスです。警察が「暴徒」といわれる方々にプシューッとやるやつです。濃度が高ければ死にます。

 

また毒ガスにはくしゃみ剤もありました。イーゲー・ファルベンという化学企業で、藍色の人工染料を作っている工場の女工さんたちがひたすらくしゃみをする。のちにノーベル賞をとることになる化学者が「これ、戦争に使える」と考えた。つまり銃をかまえているときにくしゃみをさせれば正確に撃てなくなる-と考えたのです。それでくしゃみ剤を大量に作ってばらまいた。ところがくしゃみ剤の威力がたいしたことがなかったので、開発がエスカレートしていきます。そこで出てきたのがホスゲンという、窒息させる塩素系のガスです。口や鼻から入って体内で反応し、肺に水がたまっておぼれるように死んでいくという毒ガスです。これは効果がありました。しかし、これに対抗してガスマスクが開発されるとうまく人を殺せない。すると、さらに新しい毒ガスは作られました。ちなみにガスマスクのフィルターとして開発された技術が、私たちの生活に役立っています。ティッシュです。

 

そして作られたのがマスタードガスです。イペリットともいいます。衣服の隙間から入ってくる。皮膚がただれて、皮膚呼吸ができなくなる。

青酸ガスを何に使ったか

もう一つ、血液剤といって、細胞内のミトコンドリアに直接作用し、酸素を取りこめないようにする毒ガスですが、これは青酸ガスなので即死します。ところが大戦後、これが大量に残ります。大戦後、毒ガスは禁止されたこともあって、使い道がなくなってしまいます。とくにアメリカには、イギリスやフランスに供給するために作った膨大な青酸ガスが残っていました。どうしようかとなりました。アメリカ南部には広大な綿花畑がありました。綿花には害虫がつきます。この害虫を殺すために、青酸ガスを使ってみようと応用昆虫学の研究者が提唱して、空軍の飛行機を借りて散布したのです。これが効果てきめんだったのです。その結果、登場したのが農薬企業です。余った毒ガスの利用なのです。

 

このように戦争と農業は、第一次世界大戦のときにすでにドイツやアメリカの大企業によって、戦時には兵器、平時には農薬製造として結びつけられていたのです。

 

こうした先端的な科学技術によって、多くの若い人が死に、傷つきました。精神的に傷つき、日常生活ができなった若者もたくさん出ました。戦後、精神医学が発達しましたが、これも皮肉なことです。

食と農をつなげて考える

次に食を見ていきましょう。現在、食と農をバラバラではなく、統合して考えようという流れが強くなりつつあります。農業経済学の「フードシステム」という概念はその代表的なものの一つです。どういう食べ物がどこで収穫されたり、漁獲されたりして、どういう流通経路をたどり、どういうところで調理されてきたのか、総合的に知るあり方です。私のような節操のない研究者にぴったりの概念ですね。

 

私は、京都大学人文科学研究所というところに勤めています。共同研究という方法で、いろんな方を全国からお呼びして、戦争、国家、宗教、環境、啓蒙、人種、天皇など、同じ研究テーマについて議論を深める、という仕事が中心の研究所です。私の職場の名前に刻まれている「科学」、つまり「サイエンス」、「サイエンティスト」という言葉が登場したのは19世紀になってからのことです。つい最近です。ニュートン、ライプニッツ、ガウスたちはサイエンティストとは呼ばれていません。彼らは自然哲学者です。自然を哲学的に考える人々が神の摂理を研究しようと思ってたまたまたどり着いたのが万有引力の法則だったりしたのです。それが細分化していって、お互いの研究に分かれていたのが19世紀です。自然哲学者が科学者になっていきました。ちなみにサイエンスという言葉に日本では「科学」という言葉をあてましたが、「科」という言葉は中国では「分ける」という意味があります。「科目」という言葉もそうで、それぞれが分かれているということですね。私の野望は、みなさんが「科」で分けているものを全部つなげてやろうということです。そして全体を見渡せるような学問をやりたいなと思っています。いまは理系文系関係なく乱読をしているような状態です。

醤油は何から作るのか

ここからは色々な食品を見ながら、現代社会の食の状況を考えてみましょう。

 

『植物油の政治経済学』(昭和堂、2019年)の著者である平賀緑さんのご講演を聞いて知ったのですが、日本に流通する醤油の八割は脱脂大豆から作られています。大豆をしぼって油をとったあとの粕をフレークにしたものを使っているのです。私は、満洲の農業にも関心があるのですが、戦前満洲から輸入していた代表的なものの一つが大豆粕です。でもこの大豆粕は醤油を作るためではなく、肥料にしたり飼料にしたりしたのです。これが化学肥料に変わるのが1920年代です。日本でも空気中の窒素を利用する技術を身に付けたのです。その会社が、熊本県水俣にできた日本窒素肥料株式会社、のちのチッソです。そして新潟県の昭和電工、これも窒素肥料を作ります。これらの水俣病は、化学企業が新しいだから肥料の歴史は公害の歴史と密接に関わっていくのです。

 

いま大豆粕は飼料として使われています。「三ツ星醤油」で有名な和歌山県御坊市の老舗の醤油屋「堀河屋」さんの若主人は、かつて商社に勤めていて、食品関係に携わり、担当したのがまさに脱脂大豆だったそうです。自分の家で昔から代々、丸大豆から労力をかけて作っている、経済効率になかなかフィットしない、濃厚な味の醤油というのは稀であることに気づくわけです。

 

私たちは「国産丸大豆有機醤油」というような言葉に心動かされ、購入したくなります。しかし、脱脂大豆の醤油よりも高い。私たちがこうあってほしいと思っているものと、経済的に買うものが必ずしも一致しないという状況が生まれているわけです。脱脂大豆から生産すると当然安価になりますから。

甘味料と香料

ブドウ糖果糖液糖という甘味料があります。甘味料と言っても砂糖ではありません。トウモロコシ由来なのです。なぜトウモロコシなのか。アメリカがトウモロコシの世界第1位の産地だからです。この甘味料、トウモロコシから糖分を取り出します。砂糖より安価ですが、医学的に問題があるとのデータもあり、さらにトウモロコシ自体がほとんど遺伝子組み換えで作られています。

 

それから香料です。現代の食品において重要なものです。人間は何かを食べるときに、美味しそうか不味そうか、まず嗅覚で判断します。鼻です。味覚よりも嗅覚の方が感度が高い。エリック・シュローサーというアメリカを代表するジャーナリストの『ファスト・フード・ネイション』という本があります。日本では『ファストフードが世界を食いつくす』(楡井浩一訳、草思社文庫、2013年)というタイトルで翻訳されています。先入観を廃し、詳細に調査するシュローサーの本はどれも本当に凄まじいです(彼の『核は暴走する』(布施由紀子訳、河出書房新社、2018年)もぜひ読んでください)。強くて大きいものに巻かれるのでなかく、全く物怖じせずに対峙し、国家や企業の圧力に屈せず、地道に調査を続けるシュローサーのようなジャーナリストこそ、本当のジャーナリストと呼ぶべき人だと思います。この本によると、それを利用しようとしたのがマクドナルドです。マック・ポテトを作ったときに、ただのポテトと塩では満足しないだろうということで、焼いた肉の匂いのする香料をふりかけたのです。それから、『コンバット・レディー・キッチン』、邦訳では『戦争が作った現代の食卓』(田沢恭子訳、白楊社、2017年)という本があります。アナスタシア・マークス・デ・サルセドの執筆したこの本によると、シリアルバー、プロテインバー、レトルト食品、プロセスチーズなど、これらわたしたちの生活でも消費されている商品のかなりの部分が、ペンタゴンの管轄下にある、ネイティック・ソルジャー・システム・センターという兵食開発施設で開発されたものです。戦争中に兵士が何を食べれば元気がでるかを考えぬいた結果、たいへん便利なものとして軍隊で使われていたものです。平時でそれを売ってみたら爆発的に人気が出て使われているわけですね。働く場所は、まるで戦場と同じであるかのようです。

 

このように、戦争と農業、戦争と食というものは非常に深い関わりがあります。第二次世界大戦で見ていくと、食べること、農業を復興させていくこと、それ自体が戦争の起源というか戦争のモチベーションに変わっていくということがわかります。

『農学と戦争』(岩波書店、2019年)という本を今年、東京農業大学の小塩海平さんと足達太郎さんといっしょに出版しました。戦争末期の国策で、誰もいきたがらなくなった満洲に若者を強引に生かせるための「報国農場」が作られていました。そこへ人々を送り込まなければならない。誰を送るか。その時、東京農大の10代後半の若い人々を送り込んだのです。これらの農地は、満洲や朝鮮の人々の土地を非常に安い値段で買い集めた土地でした。

 

ナチスも戦争でポーランドの土地を得て、そこにヨーロッパ各地に散らばって住んでいるドイツ人を入植させていましたが、そこでもドイツの「最先端の」農業技術を拡大していくという、満洲と同じような発想をしていました。しかもナチスは人種ごとに「飢えてもかまわない」人種を創出し、それによってヨーロッパ内の食料配給量を決める。飢えて死なせるところに踏み込んだプランを作っていたのです。これをフンガープラン(飢餓政策)と言いますが、本当にありえないほど残酷なシステムを淡々と構築していました。

 

食を通じたジェノサイドと言えます。しかし、これは現在消えたのでしょうか。完全に克服された過去の遺物なのでしょうか。いえ、違います。食料がある一定のところにしか集まらない世界を、私たちは生きてしまっています。そして、すでに述べた通り、人を生かす技術と人を殺す技術を切ることはできない-私たちはそういう世界を生きてしまっているのです。

食べるとはどういうことか

では、私たちはこうした世界を変えることができないのでしょうか。おそらく難しいでしょう。こうした世界で利益を得ている人びとは膨大な権力と財力と政治へのコネクションを持っています。食べることや食を通して、どのように社会を変えていけるのか、という問い自体、成立しないかもしれない、と私も思うことがあります。それでも、私は、食を通じた社会変革の可能性に自分の小さな研究人生を捧げてみることにしました。その理由は、自分の能力が高いからでは全くありません。すでに膨大な先駆者たちが存在しているからです。

 

まず、倫理上の問題です。食べることはカントもヘーゲルも論じていませんが、フォイエルバッハという哲学者が論じています。フォイエルバッハの食の理論については、日本では河上睦子さんが第一人者です。哲学で食の問題なんて、という時代からずっと河上さんはフォイエルバッハの食の理論に着目してきた先駆者です。フォイエルバッハの有名な言葉にDer Mensch ist, was er ißt.」があります。人間は、つまり私たちは食べているものによってあるのだ、しかしそれだけではない。マタイ福音書の中で、イエスが断食中に誘惑者-悪魔-がやってきて、「お前はこの石ころをパンに変えられるだろう」と指で示した時に、イエスはそんなことはできないと誘惑者を追い払う。その時の決めぜりふが「人はパンのみにて生きるにあらず。神の口より出ずる一つ一つの言葉にて生く」。神の言葉のもとで、私たちは生きているのだと言っています。ところが、フォイエルバッハはこれに反発したのです。人間はパンのみで生きているのではないが、やはり食べなければ生きていけない。

 

村尾孝さん(満洲報国農場の体験者で学生時代に渡満されています。今日もお越しいただいております)のお話を聞きますと、本当に追い詰められた時には土にこぼれ落ちている大豆を食べたり、どういう野草が食べられるか探したり、馬を殺して食べたり、神の言葉などと言っている場合でなくなるということがよくわかります。村尾さんは、立命館平和ミュージアムのボランティアとして、戦争体験を若い人に語り継いでおられ、自分の辿った歴史を知るべく、退職後に新たに中国語を学んだり、表現方法の一つとして俳句を学んだりされ、歴史に対し非常に誠実に向き合っておられます。

 

人間というものは、食べること、食べる物によって、作られているのだとフォイエルバッハは言った。Der Mensch ist, was er ißt.wasは英語のwhatで、「もの」とも「こと」とも訳せ、理解できます。この場合、「こと」というのがとても大事です。つまり「人間とは、すなわち人間が食べていることである」とも訳せます。何だたいして違わないんじゃないかと思われるかも知れませんが、私にとってはちょっと目が潤むくらい重要なところです。つまり、人間は食べ物で生きているという物理的なことではなく、食べていること、それが人間として生きていることを証明してくれるということ。誰かといっしょに食べていてもいいし、お箸でもスプーンでもいいのだけれど、食べている物だけではなくて、私たちが食べていること、それがあってはじめて、私たちは「ある」と自信を持って言えること。そう考えてきますと、私たちは、「食べ物」自体に気をとられて、「食べること」という行為そのものをあまり考えていないということに気づいてきます。

腸の中・土壌の中

最近、イタリアの植物学者のエマヌエーレ・コッチャが書いた『植物の生の哲学』(嶋崎正樹訳、勁草書房、2019)というおもしろい哲学書があります。イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンのお弟子さんです。彼は、私たちは植物が作った世界にひたっていると言います。これは、私たちが植物による酸素供給に支えられているからだ、とコッチャはいいます。もちろんそれだけではありません。腸には多くの根があって、その根から多くの栄養素がポトポト落ちていることが医学的にわかってきています。どうやら人間はわざと栄養をばらまいているのです。特に大腸に細菌が棲んでくれるようにエサをばらまいていることがわかってきました。そうすると腸内フローラがしっかりしてきて、繊維を食べてもちゃんと分解してくれる-そういうことが明らかになっています。これはまさに植物の土壌に対する関係といっしょです。植物も土壌に根をはって、その根から光合成であまったブドウ糖をばらまいているのです。そうするとたくさん虫がよってきて、特に微生物がよってきて、根のまわりが根圏という一つの大きな生態世界に変わっていく。そういう植物のシステムと腸のシステムとはよく似ていて、大地のうえで生きる私たちはまさに植物の生態系の中にひたって生きているということがコッチャの議論から見えてきます。

中心に何を置くか

そうなってくると、学校教育をもう一回考え直さないといけません。これについて、アメリカにジョン・デュ-イというプラグマティズムの哲学者・教育学者がいましたが、彼の理論はとても面白いです。日本にもデュ-イの理論に基づいたきのくに子どもの村学園ありますが、そこでは生徒たちが自分たちで作った物を自分たちで食べることにかなりの時間を使っているようです。デュ-イがこんなことを言っています。「台所に入っているすべての素材は郷土から生まれたものである。それらのものは、土壌から生じ、光と水の影響によって育てられ、地域の環境のさまざまの様相をしめしている。(中略)真の植物学習は植物をその自然的環境において、同時にまたその用途において、それもたんに食料としてのみでなく、人間の社会生活へのその一切の適応において、とりあつかうのである。料理もまた同様に最も自然に科学の研究へのみちびきとなる」(『学校と社会』岩波文庫)。

 

デュ-イは料理をもっと学校で教えようと言っています。私は、デュ-イの衣食住を真ん中に据える教育のあり方に共感を抱いています。

 

私の知人で大阪の保育園の調理師をしている人がいて、ずっと疑問に思っていることがあるというのです。「どうして調理室が端っこにあるのか」と。そういうと小学校でもそうですね。そのあと園が建て替えられることになった時に「私に設計させて」と提案をしました。職員室の隣りに調理室をもってきたのです。L字型の角のところに調理室を作ったのです。そうしたら、子どもたちは毎日11時頃からあのおいしい匂いにさらされて遊ばなければならなくなったのです(笑)。子どもたちが調理場にかぶりつくのです。「何ができるの? 何? 何?」と。そうすると、今度は調理師さんたちがハッスルするのです。子どもたちとの会話もはずむのです。デュ-イは学校のモデルとして、中心に食堂を置くことを提唱しました。私は、これを京大でもいつかやりたい。応援してください(笑)。大学の真ん中に京都の地元食材だけを使用した食堂を作ってみたい。時計台の下は全部食堂。大学付属食堂ではなく、食堂附属大学というのが、私の思想の核です。そこでは、生協のように全国どこでも同じメニューではなく、京都に住んでいるおばちゃんやおじちゃんの、ここでしか食べられない料理を食べたい。朝ごはんや夜ごはんも低価格で提供して、朝晩忙しいシングルペアレントの家族も後ろめたさを感じることなく入ることができる食堂。多めに払った人はチケットを壁に貼る。あるいは、皿洗いや掃除を手伝ったらチケットをもらえる。それを持ってくれば無料になる食堂(東京の「未来食堂」のシステムもそうですね)。貧富の差も関係なく楽しめる食堂。地域の人もそこにやってきて、色々な勉強会が開催される。これぞ、京都大学が目指す「地域に開いた大学」ではないでしょうか。

『給食の歴史』の中でも申し上げたかったのは、そこなんです。調理場を真ん中に、あるいは家庭科をもっと大事にということです。家庭科と社会科はとっても近いと私は思っています。家庭科は、いまの政権のもとでだんだん端っこに追いやられていると、家庭科の先生方からよく聞きます。調理とか衣服を縫ったりとか、いらないと。Der Mensch ist, was er ißt.」を突き詰めて行くと、そういうところまで行くと思います。

フレーベルは何を発明したか

あと10分です。さあ、どうしようか…(笑)。

 

これと同じようなことを考えている人が、フリードリッヒ・フレーベルです。最近、私は『分解の哲学』(青土社、2019年)という本を出版しました。この本を書いている途中で(どの本を書いていてもそうですが)、知れば知るほど自分があまりにも無知で恥ずかしくなってしまい、だから自分でも信じられないほど本を読んで、取り憑かれたように書いた本です。生産と消費という二つの言葉に圧倒される経済効率中心社会に対して、分解(つまり、ものを壊して、分解して、再利用するようにする)という行為を対置させることを試みたものです。その本で、フレーベルに一章をあてました。フレーベルはドイツ人で19世紀の教育哲学者、デュ-イに非常に大きな影響を与えた人です。アンパンマンの絵本で有名なフレーベル館のフレーベルです。彼はものすごい真面目な学者さんだったのですが、私たちにとって欠かせない2つのものを発明しました。

 

1つは積み木です。もちろんそれまで木を積み上げる遊びはあったでしょうけど、これを子どもたちが購入できるような形にしたのはフレーベルです。もう1つはキンダーガルテン、幼稚園です。幼稚園はそれまでありませんでした。未就学児は教育すべき対象ではありませんでした。それをちゃんと子どもとともに生きるというテーマで、彼はキンダーガルテンを作っていきます。訳せば「子どもたちの庭」ということですが、彼の文章を読むと「庭」というよりもむしろ「菜園」とか「畑」といった方がいいでしょう。園児一人一人に畑を与える。子どもたちは畑に囲まれて育つ。植物が育つ、幼児が育つ、みんな育つ。これが幼稚園のコンセプトです。だから、幼稚園に畑があるということは当然のことで、たいへん重要なことです。麦からパンを作り、食べるということ、そして出すということ。積み木を積んでいくということ、そしてバラバラにしていくこと、そしてまた積み上げるということ。これを宇宙の摂理として、教育でやろうとしたのがフレーベルです。つまり私たちはいずれ死んで土に還ります。そして土の中でみみずや微生物に分解され、いずれまた別のだれかに生まれ変わっていく。私たちの砕け散った物質は、必ず別のまた何かになっていく。その摂理を解くための道具が積み木だった。そういう意味で、積み木は幼稚園になければならないのです。そういう崇高な世界観があったことを書きました。これはデュ-イによく似ているなと感じます。デュ-イも学校作りのモデルとして、食堂だけでなく菜園を必ず置きなさいとして論じていました。

縁食の萌芽-解放区の実験場

食べることがゆがんでいるから世界がゆがんでいるのではないかと考える人は、私だけではなくたくさんおられて世界中でチャレンジしています。学問も生きることもあらゆることは、まず食べていかないといけないんだということ。そこから学問とか文化とか芸術を考え直していこうという動きが出てきています。

 

食べることがマグネットのようになって人々が集まる-ということを、私は縁食と呼んでいます。ミシマ社の『ちゃぶ台』という雑誌にずっと「縁食論」を連載させてもらっています。そろそろ本になる予定です。

 

小学生が一人で食べている孤食が問題になりました。食事は、家庭団らんで食べようという運動をする人々が出てきました。一方で、食べるということは共食であると、文化人類学者たちは言ってきました。つまり食べるということは、もともと共同体でみんなと一緒に火を囲んで-ということは神を囲んで食べる。これが共食のあり方ですが、しかしいま共同体はくずれていて、近所の人といっしょに食べるという機会も少なくなっています。

 

そんな中で、孤食でもなく共食でもない、ふらっと立ち寄れて帰れるような食のあり方がいま全国で急速に普及しています。ドイツでも広がっています。こういう形態を縁食と呼んでいますが、縁食を通してデュ-イが目ざしてしたようなものをやろうということです。食を通して、食べ物をマグネットのようにして、人々が集まり、政治の話しとか町おこしとかについて語り合うステーションにしていく。

 

例えば、島根県奥出雲町のあるそば屋さん。稲田姫神社の中にあります。正月に行きましたら、ご主人が甘酒を出してくれました。もちろんそばが美味しいのですが、そば屋にしては広すぎるのです。そこに地域の人たちが集まってきて、神社の景観や耕作放棄地の再利用や地域の活性化など、さまざまな問題に取り組んでいます。

 

あるいは、掛川市に子ども美術工場アゴラがあります。ある美術学校の先生をしている渋垂さんというかたが民家を改築して作りました。ここは、小学生たちの美術の学校であり、不登校の子どもも来ています。何をしてもいいし、子どもたちが電動ノコギリとかも使っているのですが、渋垂さんは最初に危険なものは危険だときっちり最初に教えれば、あとは信じるしかないとしています。事故はいままで一度もありません。美術学校であり、講演会の会場であり、食事を持ってみんなで集う食堂でもあり、ギャラリーでもあって、その多機能性が居心地の良い空間を演出しています。

 

そして京都府伊根町の「日本一おいしい給食」を、司会の大場さんの教え子さんに紹介していただいて、その給食の根本を作り上げた方にお会いしました。このかたはどういうふうにそのハイレベルな給食を作り上げたというと、伊根にはおいしいコシヒカリと漁港がある、これをなんで使わないのか、なんでほかから持ってくるのか、という思いで、地元の農家を一軒一軒回って食材を確保したのです。そして自分は、子どもが喜ぶレシピを徹底的に考え抜いて、それを調理師さんたちに教えてあげながら創り上げた給食なのです。給食を通じて、農家と食べることと給食のおばちゃんたちがつながっています。

おわりに

生きるための技術が人を殺すための技術と密接につながっている中で、私たちはもう一度食べるということはどういうことかを考える-そういう動きが全国で見られています。食べ物について考えていると、あんまり真面目すぎる話しにはならないですね。食べることは快楽が伴いますから。例えば来たるべき政治の話を、食事抜きにひたすら語るよりは、そこに煎餅とお茶があるだけで、ちょっとはずして考えられる、そういう役割を果たします。そういうふうに食べる物を通じて快楽を含みながら、ちょっとずつ面白い解放区を作っていく。これが、いろんなところにできてきているのが面白いなあと思っています。それがこういうがんじがらめになったグローバルな社会からローカルな社会につながっていく過程になるんじゃないかと思っております。これで終わります。(大きな拍手)