好天に恵まれた 11月フィールドワーク

1120日のフィールドワークは、他の行事がいろいろ重なった中で、ガイドをして頂いた早川さん、久保さんを含め13名が参加しました。また、翔鸞小学校では、元校長先生にも説明をして頂き、ガイド3名という贅沢な解説で多くの学びがあった半日となりました。

 集合場所の北野天満宮では、先ず江戸の火消し新門辰五郎の名前の刻まれた常夜灯から見学が スタートしました。将軍徳川慶喜が京都に来るときに供に加えられた新門辰五郎率いる江戸町火消しから、京都の人々は多くを学びました。明治2年に設立された番組小学校には、消防の施設・器具や組織が置かれました。東京の「町火消し」に対して、京都は「学校火消し」と呼ばれ、消防庁ができるまでは、この二つが全国の消防の手本となったそうです。

 境内にある茶席「松向軒」の庭には、「人さがしの碑」が立っています。「奇縁氷人石」と呼ばれ、迷子の行方や情報を貼り付けるために置かれた石です。

 子授け祈願でたくさんの「饅頭くい人形」が貸し出され、成就の返礼として奉納もされた東向観音寺には、今も多くの人形が飾られています。

京都で一番古い絵馬堂には、算額も見ることができます。算額は、算数・数学の難問を額にして世間に知らせようとするもので、その問題に対する解答や解答の誤りを指摘する額もあったようです。境内の片隅には、日露戦争の戦利品の砲弾も飾られており、陸軍大臣寺内正毅の名も見られます。 

御土居も境内にあり、構造や工夫がよく分かります。(有料なので中には入らず外から一部を眺めました。)その他にも山国隊寄進の灯籠、織部型灯籠等々、最初の見学先の北野天満宮だけで、早くも一般の観光では分からない見所がいっぱいです。

 秀吉が開いた北野大茶会に関わる見所もありました。ここでは、茶会で出され秀吉も褒めたという「真盛豆(しんせいまめ)」を頂きました。こうした楽しみを用意してくださる早川さんの心配りに感謝!!です。

 翔鸞小学校の校門を入って左側に「車石」と「是より洛中荷馬口付のもの乗る遍から須」と記された「是より洛中」の標石が置かれていました。車石は、江戸時代に京都につながる東海道、鳥羽街道、竹田街道の牛車道に敷かれた花崗岩の敷石で、車輪の二列の溝が残っています。工事で破壊されそうな物を譲り受けて学校に配るなど保存のための取り組みがされ、京都市と大津市の三十校以上の小・中・高校に置かれており、JR大津駅前や御香宮などにも保存されています。「是より洛中」碑は、御土居の出入り口(京の七口)の外側にあったものです。現在は京都市内に16本あると言われています。

 翔鸞小学校の校門から玄関までは、京都市電北野線の舗装に使われていた石が敷き詰められています。構内にある敷石は600枚にもなるそうです。この日本最古の電車の敷石は、京都市と掛け合って、無償で譲り受けたもので、運搬費用は地元の人たちが集めました。

 貴重な歴史遺産が大切に守り保存されている様子が分かった貴重な学びの場となりました。

 次に訪れたのが千本釈迦堂(大報恩寺)です。本堂造営の大工棟梁であった夫を助けた妻「おかめ」の「おかめ塚」や日本唯一の「おかめ瓦」があります。中に入るとたくさんのおかめ人形も陳列してありました。宝物館には、快慶作の釈迦十人弟子像や、定慶作の六観音像があります。これらの仏像の光背は透彫唐草船形と言われ、これらがフランスに貸し出された御礼として日本に来たのが「モナリザ」の絵だったそうです。足利義満が乗った牛車の車輪もありましたが、想像以上の大きさに驚かされました。本堂には、応仁の乱の時にできた槍傷、刀傷、矢じりの跡が目立つ柱が何本かあります。この柱の傷は、NHK「歴史探偵・ハードボイルド応仁の乱」でも紹介されていました。応仁の乱の戦火を逃れた本堂は洛中最古の木造建築物です。

 奈良の春日神を勧請したと伝えられる七野神社(ななののじんじゃ)には、住宅街の中の小さな神社で、賀茂斎院跡の碑が建っています。中世の兵火で荒廃し、豊臣秀吉によって再興されました。その名残か、本殿基盤の石垣の中に大名の刻印が彫り込まれた石をいくつか見つけることができました。

 ここで早川さんからの差入の二品目の「唐板」を頂きました。コースの半ばですが、予定の時刻を過ぎましたので、この日のフィールドワークはここで終了し、解散となりました。

 解散後も、案内の久保さんを含めた4名がコースを歩き続け、宝慶寺の横や表千家・裏千家の建物を見ながら上御霊神社まで歩きました。最後に「唐板」を買って帰途につきました。頂いたA3版18枚の詳しい資料は、貴重なお土産となりました。

参加者の感想(敬称略)

滋賀歴教協 奥村 信夫(滋賀大学教育学部附属中学校)

絶好の散策日和ともいうべき秋晴れのもと、京都の町中をフィールドワークしました。案内ちらしの記載にはテーマが「京都で天下の行方を追う」とあり、出発地点が北野天満宮とはどういうことだろうと不思議に思っていました。ところが、北野天満宮の境内だけでも、秀吉の時代から明治後期までの史跡があり、千本釈迦堂には鎌倉期につくられた仏像群や足利義満が使った牛車の車輪があり、さらに応仁の乱勃発地(東軍)である上御霊神社にまで歩いてみて、それぞれの地に各時代のエピソードやドラマがあることを思い知らされ、納得がいきました。ここ京都が日本歴史の中で重要な位置を占めていることを改めて実感したところです。また、いただいた資料の表紙の、京のまちづくり一考・寺之内から寺町「西の御土居から東の御土居へ」との記載が今回の全行程(コース)の意味合いを的確に表していると思いました。

 さて、全行程(コース)の中で、特に印象に残ったところを中心に述べます。

1 北野天満宮では、多くの観光客が参拝する本殿には見向きもせず、初めに常夜燈「消防方の碑」を見学しました。この碑は、京都の人々が、15代将軍慶喜とともに京都にやって来た江戸町火消に消火活動の基本を学んだことを今に伝えるものです。次に、秀吉が北野大茶会を開いた「北野大茶湯之址」の石碑と「太閤井戸」が残されていて、秀吉が天神を信仰していたことに加えて、ここが良質の水が得られるところであったという説明に納得しました。境内で唯一商店を構え販売している「長五郎餅」も、この北野大茶会で秀吉に認められたことに由来していることを初めて知りました。また、絵馬堂南西横に2つの大砲の弾のような物が建てられていることに驚きました。日露戦争戦利品で、それには「陸軍大臣 寺内正毅」と掘られていました。北野天満宮まで戦争遂行に利用されていたのだと改めて考えさせられました。

2 御土居と関連した、「是より洛中」碑について。秀吉は、まちづくりのために土塁と堀(川)でつくった御土居で町を囲み、人と物資の出入りを管理し、寺も「寺之内通」や「寺町通」に強制移転させました。それが今も残っているのです。「是より洛中」碑が、江戸時代半ばごろに洛中と洛外の境につくられました。当初は木杭でしたが、朽ちてくるので石柱に替えられていったということです。石柱に刻まれた文字は、明治以降、石工が文字彫りの腕を磨くために多くの模倣品がつくられたと言います。江戸時代の技術の高さに驚嘆させられます。

3 翔鸞小学校の校門前から校舎までの敷石は、もともと京都市内を走っていた市電の舗装に使われていた石を再利用したものです。さらに、校門より入ってすぐ右手に「是より洛中」碑と「車石」を見ることができます。「車石」は、江戸時代に米を運ぶ牛車の車輪が通る石のレールです。学制発布より先に町衆の手でつくられた番組小学校以来の伝統を受け継ぎ、人々が地域の学校や子どもたちのために教材になると考え、他の場所から移設したものです。そのためには、資金と知恵、情熱を注ぐことを厭わなかったものと思われます。

 実は、私がいま勤務する滋賀大学教育学部附属幼稚園・小・中学校の校庭にも「車石」があります。なぜ膳所地区にある校地に「車石」があるのか、ずっと疑問でした。旧東海道大津宿近くのJR大津駅前に「車石」が保存・展示されていて、そこを行き交う人にその歴史を伝えているように、校舎が大津駅前から今の校地に移転した際に、教材としての価値を認め、大津駅前(大津宿付近)にあった「車石」も移設したという結論に至りました。

 他にもいろいろと新たな知見を得ることができました。学びの多いフィールドワークに参加させていただき、感謝しています。最後に、たいへん詳しい解説をしていただき、途中では京銘菓までいただいた早川先生、また、全体の解散後も上御霊神社まで案内していただいた久保先生にお礼申しあげます。

羽田 敦子

 具体物を前にしての奥深い説明で、知る楽しさが味わえる時間でした。案内して頂いた方々が、時間をかけて調べられ、次世代につなげていく事を大切にされていることが伝わってきます。私も“消防方の碑”“豊臣秀吉の北野大茶会”“六百枚の市電の敷石”は誰かに説明したいと思っています。もちろん真盛豆のことも。

浜野 生代

 今まで、観光でのみ、見てきました。でも、この日はそれとは違っていました。

 消防方の碑、豊臣秀吉の茶の湯の跡の石碑、井戸など・・・とても丁寧な説明で心に残りました。小学校に市電の敷石を使い、残す取り組みをされ、子ども達に教えてこられたのもすばらしい。歴教協の方達が大切にされようとしていることが伝わるフィールドワークでした。ありがとうございました。

竹内 都美恵

 紅葉の美しい中、自分では行くことのできない歴史的遺産の数々の名所を歩くことができ、とても有意義な半日でした。牛車の車石、応仁の乱のときの槍方は傷、御土居と是より洛中の碑、日本初の路面電車の敷石。どれもこれも始めてでした。狂言でよく見る千本釈迦堂へも行けて、大満足で帰ってきました。

 見どころがたくさん有りすぎて、予定の所を全部回れずに帰ってきましたので、頂いた資料を参考に、また巡ってみたいと思います。お世話くださった先生方、ありがとうございました。

中谷 臣

 フィールドワークに参加させてもらい、ありがとうございました。いろいろ知らない遺跡にぶつかって驚くことの多い歩きでした。わたしは特に千本釈迦堂の仏像にほれました。昔大阪にきた「顔」という変な題の中国仏像展があり、そこで見た仏像の全身のすがた、顔の豊かな表情を見て、これまで自分が見てきた仏像が急につまらないものになったことを覚えています。日本にはこういう豊かな表情の仏像はないのだ、あの中国が何でこんなに豊かなのだ、と不思議におもったものでした。ところが、今回見せてもらった大報恩寺の仏像、中でも十大弟子の立像は全身の姿勢も、顔の表情も、一つ一つがユニークで、いまにも話しかけてくるような素晴らしい彫刻でした。日本にもこれだけのものを造った彫師がいたのだと、妙に安心しました。
 また洛内・洛外を示す標石、電車の敷石、牛車の車石の保存につくしてこられた先生たちを知り、感心しました。一般の人間には大事なものかどうか判別がつかず捨ててしまうことになる過去の遺物。歴史の地道なバトンタッチですね。
 ちょっと唐突な話をしますが、わたしは予備校の経営者に、教室で政治の話はしないでほしい、と言われたことがあります。つまり現代の政治の事象は歴史の勉強とは関係がないので、受験に関係することだけを講義してくれ、それ以外のことは余計なことなのだという訳です。受験生も経営者も歴史というものは、現実の政治と無関係な「受験用の世界史」という架空のものがあると信じていて、現実はちがうのだとおもっているのです。
 つまり今と昔はちがう、と。では何のために勉強しているのか、今は昔と繋がっており、繋がっていないと思っているのは錯覚であり、かつ昔と同じことが何度でも起きている、昔であれ今であれ、政治抜きに歴史は語れない、と、わたし反対しました。歩きながら、この感覚を再確認した次第です。

羽田 純一

 早川先生がガイドをされる京都市内の見学に参加したのは、京都歴教協のフィールドワーク、乙退教の京都市内散策、合せて10回ぐらいになるでしょうか。私も京都生まれの京都育ちですが、毎回、それまで知らなかった京都の歴史・史跡について新しい発見があり、いつも楽しみに参加をしてきました。

 今回も、北野神社は以前にも早川先生の案内で来たことがありましたが、そこから先の見学先は初めてのコースでした。翔鸞小学校での見学で、身近な歴史遺産を守り次の世代に引き継いでいく事の大切さを再認識させられました。関心がある人や値打ちを知っている人にとっては“大切な物”でも、そうでない人たちにとっては“ただの物”時には“邪魔な物”になってしまい、壊され失われていくことも多々あります。もう一度自分たちの身の回りを見て、大切にしたい歴史遺産を地域の人たちとともに守っていきたいものです。

町田 研一(立命館宇治高校)

 晴天に恵まれた秋の日、久しぶりに開催された京都歴教協のフィールドワーク(以下、FWと略す)に参加してきました。今回のFWは「京都で天下の行方を追う!」と題して、北野天満宮から千本釈迦堂を経由して応仁の乱の戦場、織田信長のお墓と巡るはずでしたが、天下の行方を追い切れず、応仁の乱の戦場の手前までとなってしまいました。

 予定が消化しきれなかった最大の理由は、前半に見どころが凝縮されていたからです。その見どころのうち、北野天満宮、翔鸞小学校、千本釈迦堂についてそれぞれ簡単に感想を述べます。

 北野天満宮は、我が家から一番近い神社ということもあって家族でよく散歩に行くのでよく知っているつもりでしたが、全然知っていなかった!あの新門辰五郎さんゆかりの石灯籠が大鳥居のすぐ脇にあったことにまず驚きましたし、日露戦争戦利品の砲弾が境内の隅っこにひっそりと置いてあったこともまったく気づいていませんでした。すぐ脇の紅葉はよく写真に撮っていたのに・・・。古い神社はやはり何かあるものなんだなと改めて思いました。

 翔鸞小学校では、洛中碑と車石、市電の敷石を見学しました。そこで、車石研究会の方々が身近な歴史を残そうとご尽力されていたことを知りました。学校というのは、子どもたちへの教育だけでなく、地元の文化遺産を引き取って後世に伝える役割も果たすことができるんですね。学校の多様な役割の一端を知ることができました。自分の勤務校にも何かできることがないでしょうか。考えてみたいと思います。

 千本釈迦堂で印象に残ったのは、何といっても本堂の柱に残った応仁の乱の刀傷です。当時の武士の息遣いまで聞こえてきそうな生々しい傷跡に思わず見入ってしまいました。京都市内最古の木造建築物であることは知っていましたが、そのような刀傷が残っていたとは恥ずかしながら知りませんでした。つい先日TV番組でも放送されていたようですので、さっそく我が家の録画データを確認したいと思います。

 以上、知っているようで知らなかったご近所の史跡を巡ることができて、本当に良かったです。後日談ですが、1週間後の週末にさっそく家族と同じコースを逆回りでFWして、父親株を上げることもできました。ありがとうございました!