冒頭山田氏は、現在問題となっている改憲論の根っこにあるのは歴史認識の問題であり、ポイントは日露戦争認識と日中戦争認識であると述べた。日露戦争の正しい認識は多くの人びとに共有されていない。対英米戦争についての知識はあるが、日中戦争については少ない、いわば「空白の日中戦争」とでもいえる状況になっている。護憲論の基礎は、日本国憲法(9条)は近代日本の歩みによって制定され、継承されてきたこと。護憲論はまた戦争や植民地支配、自由の抑圧に対する否定的評価などが基底にある。一方歴史修正主義の側は、近代日本の歴史について全面的な肯定的評価、パワーポリティクス、戦争、植民地支配、人権の制限を評価・肯定する。憲法論はまさに歴史観(歴史認識)の問題である。
歴史修正主義を一翼としながら、現在の9条改憲論の土台は「明治150年」史観の問題となっている。日露戦争は朝鮮半島の植民地支配を目指す戦争であり、背景には日英同盟という軍事同盟があった。同盟なしには、日本は戦争を続けられなかった。権力者の側は「日露戦争は植民地支配に苦しむアジア諸国を励ました」(安倍談話)という認識だが、これは帝国主義戦争だったことを見えなくする議論である。日英同盟は戦争遂行のために必要な条約だったことになる。日本海軍が使用する艦船20万トンのうち70%がイギリスから、また全戦費のうち40%を債権から支払った。債権の裏ではアメリカやユダヤ系資本の存在があった。
日露戦争に対するアメリカからの支援は、満州分割を要求されるため、日本は受けなかった。日露戦争で日本は白人の側に立って有色人種支配を始めたにもかかわらず、1930年代以降「有色人種を代表して白人と戦った」という評価が流布されるようになった。日露戦争後、日本は韓国の保護国化をすすめるとともに、国内で大逆事件など社会主義者・非戦論者への弾圧を強めた。日清戦争で台湾を日本は清から「割譲」されたが、日露戦争ではむき出しの暴力で奪い取ったといえる。
日露戦争後、日本は朝鮮半島→南満州→北満州→華北支配へと進むが、これらの日本の膨張の転機こそが日露戦争であった。さかのぼれば、明治維新直後からの「脱亜入欧」的膨張政策が日中戦争に直結したと言える。満州における膨張政策は、やがてアメリカとの対立を引き起こすもとになる。もちろん背景には世界恐慌があった。満州事変の「成功」により、第2の満州国としての華北(河北・山東・山西・綏遠・チャハル)での分離工作が活発化する。泥沼化する戦争は、南京大虐殺など民衆に対する虐殺などの悪循環を生み、それが日中戦争を語ることができなくなる要因ともなった。
日中戦争の成果を失うくらいならば、対米英開戦をという選択を日本はとる。そのためドイツやイタリアと組み、その力を背景に南進(資源遅滞の確保)政策を日本はとった。1941年8月の石油禁輸により、日本は開戦不可避に追い込まれていく。
このように日本人自身が(1)日露戦争の真相・実態を知らないこと(2)戦争の記憶から日中戦争を抹消してしまっていることが大きな問題である。しかも、(1)(2)が9条改憲の背景にある歴史認識となっている。
歴史修正主義と「明治150年」史観克服のためには、「明治150年」問題の視点が重要になる。とすれば私たち歴史教育が、日本の近代150年を教える際に、日露戦争と日中戦争について歴史の掘り起しも含めて教材化することが極めて大切である。
日露戦争は世界のパワーバランスを大きく変えてしまった戦争だった。満州国の成立は、第一次世界大戦後の国際秩序を大きく崩すことになった。その後ドイツと日本はお互いに刺激し合いながら、戦争への道に突き進んでいく。独ソ不可侵条約の締結で平沼内閣が辞職するなど、世界情勢が日本に影響を与えたことを、この時期の情勢の取らえる視点として、注視せねばならない。このように自国中心の歴史の克服も重要な課題である。
講演に続いて、早川幸生さんによる、翌日の午後に実施されるフィールドワーク「近道・ぬけ道・まわり道―東山歴史散策と番組小学校」の事前学習会でした。
小学校の現場を離れて10年になる早川さんですが、知的好奇心はますます旺盛。熱心な説明と写真の数々に参加者はワクワクしました。
▼歴史認識、現状認識、授業づくりの三つの分科会に別れ、実践報告と討議をおこ
ないました。レポーターは以下の通りです。
【歴史認識】
八耳 文之「アジア太平洋戦争を考える」(滋賀・元高校)
武田 章「なぜ日本近世に農業生産力は倍増したのか」(奈良・高校)
【現状認識】
福田 秀志「生徒が学ぶ経済学習」(兵庫・高校)
和井田祐司「看護師と学ぶ、医療と自己決定権~私学独自の授業展開を探求して」
(大阪・高校)
【授業づくり】
西浦 弘望「1年間の授業記録から考える年間計画の構想~小6の社会科を例
に」(奈良・小学)
京都・中学校「小学校と高校をつなぐ中学の社会科教育の取り組み」
祇園石段下(八坂神社西楼門)集合
二軒茶屋 → 円山公園 → 石塀小路 → 八坂の塔(法観寺) → 八坂庚申堂 → 六道珍皇寺 → 京都市立開睛中学校(元洛東中学校) → 六波羅密寺 → 建仁寺 → 目疾地蔵(仲源寺) →南座(京阪「祇園四条」駅付近)解散
☛このフィールドワークのコースは、来年の京都大会のプレコースの一つです。お楽しみに!!
① 二軒茶屋
八坂神社の南入り口にある。もとは二
軒あったのでこの名がついたが、現存
するのは一軒。
オランダのカピタンも食べた豆腐田楽。曲切りが有名になったが、客の注
文通りの数に均等に切り分けただけの
ことだった。
② 人探しの碑
この碑の片側に探し人の紙を貼り、反
対側には教える側の情報の紙を貼って
いた。
③円山公園にある丸い石柱
もとは三条大橋や五城大橋の橋げた
だったもの。小川治兵衛が集めてきて
造園に使っていた。
④円山公園にある丸い石柱
⑤道標
福井県出身の三宅安兵衛と息子の清次
郎が私財を出して京都府内に400余
り建立した道標の一つ。
⑥道標
⑦八坂の塔
近くは、観光客でいっぱい。貸衣装
(多分)を着た若者たちも多かった。
⑩ 幽霊飴(子育飴)
六波羅蜜寺の近くにある飴屋さん。亡くなった母親が葬られた土中で、産んだ子のために飴を買いに来たという話が・・。でも、おいしい飴です。
⑧抜け道
近くには、こんな抜け道もあった。意
外な近道、抜け道をいろいろ通って面
白かった。
⑪伏見人形
「饅頭喰い」と歌舞伎の「暫」。「暫」は、江戸追放となった七代目
市川団十郎が、赦されて江戸に帰ると
きの土産として作らせたもの。
⑨ 清水小学校(元下京第27番組小学校)。
小中一貫校の東山開晴館校に統合さ
れ、跡地にはホテルも建てられてい
る。
⑫目疾地蔵
南座の近くにある仲源寺。目疾(めや
み)は雨止(あめやみ)から転じたも
の。八坂神社へ詣る人がよく雨を避け
て雨宿りをしたことから、雨止地蔵と
呼ばれた。水害が起こらぬように祈っ
たものとも言われている。