1月例会

 2回目の緊急事態宣言が発令されてから、はや2か月近くが経過しました。梅の花もだいぶ咲き始め、春がすぐそこまで近づいていることを感じます。

一方で、昼間の寒気もだいぶ和らいできたせいか、街中の人出も通常に戻りつつあるように感じます。学校でも、生徒たちの油断が見られると教員が引き締めることの繰り返しがいつまで続くのかとつい考えてしまいます。

 

 皆様の学校はいかがでしょうか?

 京都府下にも1月14日に緊急事態宣言が発出されたことにより、1月例会はオンラインのみで開催されました。参加者は10名で、うち初めての参加者が2名いました。

◆1月例会報告

「京のまちの下肥を渡すな-山城152カ村の訴え」

報告者 羽田純一さん(元府内小学校)

【報告の概要】

京の町の汲み取り権をめぐって、近郊の村々が下肥問屋を京都町奉行所に訴えた古文書を読み解きながら当時の様子を見ていきます。京(洛中と洛外町続き町・寺社門前境内)の人口は、正徳5(1715改め)年には3540万人とされています。その人々の大量の排泄物が周辺農村の大切な肥料となり、乙訓の筍、宇治の茶などの栽培に使われてきました。下肥は家々で汲み取られた後、高瀬舟で伏見浜→宇治川→桂川→淀川へと運ばれました。乙訓地域ヘは、おもに伏見船方の下肥船が有料で下肥を運送しました。桂川から神木浜や泥川浜に着き、そこから小畑川、小泉川を通って各村々の水路を通っては運ばれました。牛馬に荷車を引かせ、天秤で肥桶を担いで運んだ陸上運搬も行われていました。勝竜寺村には、天保年間に船持百姓が4名存在し、下肥の荷下ろし場(神木浜)があり、1年間に約300荷の下肥が取引されていました。

安政3(1856)年、勝竜寺の船方が久貝村の用水路を肥船が通るにあたって農繁期に農作業に支障をきたさないように約束していました。陸上運搬時に、道筋の村々に迷惑をかけないような約束もしていました。

下肥不足をめぐる争いもありました。下肥の値段の高騰、山城の農村で不足し、生産に支障をきたし、享保8(1723)年に京近郊152か村が「他国への下肥流出禁止」の訴えを京都町奉行所に提出し、京都町奉行所は願いを聞き入れ、「屎屋」は22軒、「買子」は80人と定め80枚の鑑札を下げ渡すなどいくつかの裁定をし、152か村も同年に村々の責任区域を決め、町々の屎尿が差し支えないように汲み取るなど、いくつか取り決めをしています。

屎尿不足の原因としては、山城以外の他国への積み下ろしの増加や、江戸中期より宇治茶の茶業が盛んになり、冬期に寒肥として大量の下肥を必要としたこと、天保年間には孟宗竹の栽培が乙訓地域で急増し、大量の下肥を施したこと、天明8年の大火で今日の町の大半が焼き尽くされ、京の屎尿が少なくなったことなどがありました。高瀬舟の船賃をめぐっても、増銭を禁止するよう願いが出されたり増銭の額や期間について取り決めを行っていました。

<授業案>

目標:今日の町からくみ取って運ばれていた屎尿は、近辺の村々の農業生産にとって貴重な肥料として使われていたことがわかる

(1)肥桶の写真を見て、何に使われたか話し合う。

(2)資料「京都の町近辺の村々のうったえ」の内容を読み取る。

(3)なぜ京都近辺の村々は京都の大小便にこんなにこだわったのかを考える。

(4)京の下肥はどのようにして

近郊の村々に運ばれたのか

考える。

 村の暮らしや生産活動について、村々に残された古文書から、学習していく様子が報告されました。

<参加者の感想>

吉田 武彦

 まず、「京の町の下肥を渡すな-山城152カ村の訴え-」この授業をつくるにあたって、地元の地域の古文書を読み解き、小学生にわかる形にまで地図や具体的な数字、イラスト、農具や特産物の写真を準備されたことは、執念にも思えるような報告でした。

 「下肥」という興味を持たざるを得ない題材であり、当時の重要な肥料として商品作物の栽培につながるものを取り上げられたことがよかったと思います。肥料は金肥だけではないことも子どもたちに強烈に意識させられ、また「下肥」をめぐっての訴えは、当時の百姓の思いをよくあらわすのではないでしょうか。

「農業生産の発展→商工業の発展が、封建体制の土台を崩し時代を変える原動力になっていったと考えると、江戸時代の学習で生産の発展を学ぶことは欠くことはできない・・」と、結びで述べられていますが、私もその通りだと思います。

 私も中学校で、①農業の発展・耕地面積の増加②商品作物の栽培の広まり・特産物③幕府政治の改革④百姓一揆の高まりという流れでやっていましたが、地元の地域資料を百姓一揆などで一部取り上げることはできても、わかりやすく生徒に伝えられるところまではなかなかできませんでした。そんなとき、小学校の先生たちがつくられている歴史資料をよく使わせていただきました。京都歴教協の西野譲さんのレポート(「歴史地理教育」)の綿づくりの資料や歴教協の歴史紙芝居「紅花の里」を使っていました。

  今回の報告は、都市京都や京都とのつながり、交通手段など、江戸時代の都市や交通の発達とも関連し、たくさんの学びがリアルに用意されていたと思いました。小学校の歴史学習だけではないですが、より具体的でわかりやすい教材が大切であると思います。やはり、その点では具体物を持ち込むことが重要だとますます実感しています。実際に天秤棒のようにかついでみると、おそらくバランスを取るにも苦労したであろうし、下肥を大切にした百姓の思いにより近づけるのではないでしょうか。(少し聞き取れなかったりして、すでに論議されて重なっていたら申し訳ありません。)

 小学校1年生国語「たぬきの糸車」の学習で収穫した綿から種取りをさせたり、綿からの糸取りを見せたりして少し慣れさせておくことも(資料参考)、できると思います。小学校4年生で養蚕をしたり、藍を使って染めたりしておくと、江戸・明治時代以降の農業・農家の歴史学習につながります。忙しい現場では、そのようにして6年歴史学習までに、少しでも体験的な学習をさせておくことが、時間確保にもなり有効だと最近考えています。

 私自身、民俗資料を使った小学校での学習教材化をすすめたいと思っています。ていねいな地域歴史教材づくりは、とても同じようにはできませんが、めざす方向を示唆して頂いた報告でした。

エコな都市は江戸だけじゃなかった!?     町田 研一

 以前、中学で教えていた時に使用していた日本文教出版や学び舎の教科書では、江戸時代の町人の暮らしが取り上げられ、糞尿が農村の肥料に再利用されていた記述が見られた。しかし、それはあくまで当時の世界的な巨大都市「江戸」のことであり、江戸が世界的に見ても先進的な都市であることが強調されていた。そして、何の疑いもなく私は江戸だけがそうなのだと思い込んでいた。恐らく私だけでなく、同じ教科書を使用している多くの中高生もその認識であろう。(上;日本文教出版『中学社会 歴史的分野』より)

 しかし、今回の羽田先生のご報告で江戸時代のエコな都市は江戸だけではないことが明らかになった。確かに農村で広く下肥が普及していたならば、それは当たり前のことなのだが、これまでまったくそのことに気づいていなかった。「目から鱗が落ちる」とはまさにこのことである。この報告はぜひ全国大会でもしていただき、他の歴史的な都市でも同様のことが行われていたことを授業で取り上げる教員を増やして、江戸時代の日本全体の実態が明らかになることを期待したい。

 さらに、古文書や各自治体で編纂された「市町村史」の価値に気づかされた。今後、地域に根差した江戸時代の学習にはこの両者は欠かせないだろう。報告者(羽田先生)は地域の古文書講座で多くの古文書に触れ、その記述の裏付けに「長岡京市史」を用いている。古文書の読解は難しくても、「市町村史」の授業への活用はすぐにできそうである。今後高校の授業でもぜひ取り入れてみたい。

 

 最後に、小学校現場の大変さがメディアによく取り上げられるが、今回の報告のような高度な資料を用いた授業が小学校向けに考案されたことに驚いた。報告者は現役の教員ではないが、それでも現場にいた時に目の前にいた生徒をある程度想定して授業を考案していることだろう。思い起こされるのは、最近見た小学校教科書の学習内容の高度さである。私が小学生だったころ(30年以上前になるが)の教科書はもっと簡単だった。現在の小学校現場で奮闘されている教員のすごさに改めて気づかされた。

下肥が大切な肥料だった時代だったからこそ争いも

後藤 貴三恵

 牛糞、鶏糞など家畜の糞は現在も肥料として使用されています。干鰯や油粕も肥料として重宝されてきました。人糞が肥料になっていたことは、現代っ子にとっては驚きだと思います。

 

パリでは、下水道が整備されていなかった19世紀末まで、各家庭からの汚物は道路に放り出され、台所からの排水だけでなく人間の排泄物も道路わきの溝に流され、それがセーヌ川へと流れていたそうです。したがって、道路は悪臭を放ち、セーヌ川からも悪臭が漂ってきていたと、テレビの番組で見たことがあります。川が下水道になっていたようです。ヨーロッパのいくつかの大都市で、馬車が走っているのに遭遇したことがありますが、馬の糞を塵取りのようなものですくい取っているのを見たことがあります。道路には糞が落ちていて乾いて固まって踏まれて粉じんになって空中を浮遊するものもあります。糞尿の処理をどうするか本来は悩ましいところですが、糞尿を農業の肥料として利用してきたのは、当時はこれ以上ない利用法だったと思います。高値で取引され、それをめぐって争いや取り決めがされてきたということは昔の人々の暮らしにとって切実なものだったと思います。地域の歴史を古文書を通してタイムスリップして学習していく様子が思い浮かびました。

ごみ、し尿処理のこと                      布川 庸子

 巨椋池も汚わい船が行き交っていたと読んだことがあります。そんなことで大変興味がありました。

 桃山で大きくなったのですが、西目川のいつも汲み取りに来て下さるお百姓さんが、汲んだお礼に、大根を23本おいてくれ、母が汲んでもらって、お野菜もらうなんてと、いつも言っていましたが、肥料として必要だったのですね。

 戦時中は、空き地があれば何か植えていましたが、肥料として自分のうちのを汲んだ体験があります。1958年結婚して城陽の2階の間借りをしていましたが、汲み取りは下のお婆さんが汲んで庭に大きな穴を掘り埋めてられました。お婆さんが娘さんの所へ行かれると、自分たちで汲み取りをしなければならず、あまりしたくない仕事なので一日伸ばしすると、いっぱいになり、困りました。長い間その夢を見ました。

 池田先生のおられた城陽団地は、入居したはいいけど、ごみ、し尿の問題で大変困られました。町役場に言いに行くと、(まだ市になっていなかった。)「自分で出した物は自分で始末せよ。」と言われたそうです。庭に穴を掘って埋めていたがもう掘るところもなくなり、町内会を開き、一致団結し、町にいろいろ要求され、バキュームカーが来たり、ごみ収集車が来るようになり、要求が実現していったと聞いています。久世小学校の建設も、そのとき頑張ったメンバーが、「理想の学校を」と、設計から意見を出し合われてできたということで、10年勤めましたが、他校とは違うところがありました。手洗いの数が多いとか黒板が湾曲しているとか。蜷川府政だから通ったのでしょうね。3年の地域学習では、その活動を聞きに行きプリントを作りました。奥田修三先生に指導を受け、それをもとにして城陽の副読本をつくりました。

 京都市も下水ができるまでは鴨川に流していましたね。丹波橋の西の方の川で排せつ物がそのままぷかぷか浮いているのを見かけ、ぞーとしたことがあります。記事にあったフランスと一緒でした。また京都市の下水工事の長かったこと。いつもどこかの道が掘り返されている状態でした。

 

 大久保の今の家に60年近く住んでいますが、来た当初は周りが畑で、お百姓さんが肥え撒きをされると、窓をしめたものです。宇治、城陽あたりは60年ほど前はこんなことでした。

久しぶりに例会報告をして

羽田 純一

コロナに伴う再度の緊急事態宣言の発出で、京都歴教協の例会も再びオンラインのみの開催となりました。今回「京の町の下肥を渡すなー山城152カ村の訴え-」を報告することになっていましたので、初体験のオンラインでの報告に“挑戦”することになってしまいました。

以前の例会で杉浦さんがオンライン報告をされたので、大凡のイメージはありましたが、ZOOMを使い慣れない者にとっては、始まるまでは何となく腰が落ち着かない状態でした。幸い、レポートが1本にも関わらず10名の方が参加され、様々な質問や意見を出して議論を盛り上げて頂けました。中妻さんの「関東での下肥を貨物列車で運ぶ」話や、辻さんの「願いや要求を実現する手段」という視点から資料を位置づけるという見方など、参考になる意見も頂けました。また、後日、久保さんと電話でお話した時には、京都市内にも下肥に関わる資料が残っているという情報も頂けました。

 

 コロナの副産物ではありますが、時にはオンラインで報告してもらえれば、会場まで足を運ぶのが困難な方でも報告ができたり、比較的楽に参加もでき、例会参加の物理的なハードルは下がるのではないかと感じました。私もZOOMにちょっと慣れてきたので、今年の2.11集会は、会場へ行くのを断念してオンラインで参加しました。

今回の授業案で使った資料は、1723(享保8)年「山城152カ村連判状写」(今里区有文書)ですが、子ども向けに意訳した資料はその前半部分で、後半には、京の町の汲み取りに差し支えがでないように汲み取り責任地域の分担、汲み取り時の約束事などについての各村々の申し合わせが書かれています。その他にも、1821(文政4) 年正月「京高瀬川浜下し一件文書写」(今里区有文書)=高瀬川屎船増銭についてのやりとり、同年2月「高瀬川船惣代交代届控」(今里区有文書)=角倉役所への届け出、同年3月「高瀬川積下し屎船賃定写」(今里区有文書)、1856(安政3)年「勝竜寺村船方百姓差入一札写」(中山寛家文書)=屎小船通船に際し用水に差し支えることのない旨の誓約書が長岡京市史資料編に掲載されています。近代に入っても、1901(明治34)年「山城屎尿購買同盟締盟書」(海印寺村役場文書)があり、屎尿を購買する同盟が設立されたことがわかります。

各地の市町村史や文化財担当でつくられている資料の中には、興味のあるものがたくさんあります。近世だけでなく、近代になってからの資料も豊富にあり、教材の宝の山だと思っています。そのままでは使えないので児童や生徒向けに手直しが必要ですが、時間を見つけてはボチボチ教材作りを続けていこうかと思っています。若い先生たちの誰かが、どれかを授業で使ってくれるかもしれないことを期待しながら・・・。